(限定記事を一部修正して公開しています)

ずっとサマディが知りたくて、「サマディに気づいたらどうなっちゃうんだろう!」と期待してタイにいる先生のもとに毎年会いに行っていました。

でも、想像していたことは起きませんでした。気づいたと同時に気づきは消えて、どうにかなる自分がもういませんでした。

自己の不在は究極の自由とも言えます(本当は自由すらないのですが、説明するために使います)。それは、特別なことがひとつもないから。

それでも表には「人生」として何でも表れてきます。そして「個人」というフィルターを通るとそれが特別なものに見えてしまうんですね。そして、幸せと不幸、天国と地獄のように、善悪が、優劣が生まれます。

ヨガは私にとって大事なものです。ヨガに出会えて本当によかったなと思っています。でも、そこには何の意味も特別性もありません。そして究極には、"誰も"ヨガしていない。

でも、だからといってこれが「それなら、呼吸も身体の使い方もどうでもいいじゃん!」ということにはならないんですね。

例えば私や誰かが「ヨガは特別です!」と言ったとして、それは間違い、という話をしているのではなく・・・

続きは5/20(火)レッスンの後~13:00にお話しします。