これは全然違います。癒される必要があって、癒されなければいけなくて、癒されたいのが"個の自己"です。一方、サマディは癒しを必要としません。それを必要とする主体が落ちているから。そこには「癒し」すらありません。
究極にシンプルなのは、余計なコントロールが入らないから。例えば自分を癒そうとするとき、それが自分で出来ると思っていますよね。コントロール不可というのは「もう全て決まっているから何をしても結果は同じ」とか、「運命に任せよう」ということではなく、それすらコントロール出来ないということ。コントロールしているものが"ない"んです。
どこかで「瞑想やシャバーサナで認識が落ちると・・・」というようなことを書いたことがあるし、ここにも「主体が落ちる」と書いていますが、本当は落ちません。落ちるものすらないんです。
"個の自己"は瞑想によって何かになれると思うかもしれません。サマディに気づいて悟れると思うかもしれません。もうお気づきの方もいると思いますが、悟りは悟れるものじゃない。悟りが必要な誰かがいないんだもん。ゆえに悟りを得た"誰か"もいません。もちろん、悟りもありません。