昔は、ヨガは探求者のためのものというイメージが強かったと思います。だから私が練習を始めた頃は、変わった人しかいなかった。早朝に名前も知らない人同士が集まって、黙々と練習してそれぞれの場所に帰っていく。いつかその時(サマディ)が来ると信じて。
実際にパタビジョイス先生は、「Practice,practice,practice...One day comming.」と常に言っていました。

「人生の意味や目的、自分とは何なのか?」常に答えを知りたいと思うのは"個の自己"の習性ですが、人生を良くしたいと思う時には必ず良くない人生が存在するし、希望は絶望とセットです。
探求は決して悪いものではないけれど、探求者が本当に探し求めているもの(究極の安心)は探求が強まるほど隠されてしまうもの。求めて探し出そうとすることが逆にそれを遠ざけます。
"自分"が人生の舵取りをしていると思っていれば当然人生は深刻で一大事です。少しでも良くしたいし、常に失敗を恐れます。でも実は最初から誰もハンドルを握っていないし、誰も船に乗っていません(運命は決められているという意味ではありません)。
ヨガのサマディも禅の悟りも、"教え"になった瞬間にそれは真逆のものになります。自己の不在とは、全てです。全てとは、在って無い、ということです。